すきとおる風を
感じながら
絶景のその先へ

日本一の高さを誇る鉄橋からの眺め
世界農業遺産に認定された
神々とともにある暮らし、
美しい棚田や水路、四季折々の木々の色
沿道に目をやれば、
笑顔で手を振る人がいる。

運転士の話から見えないものも見えてくる。
杖つく人を待って出発が遅れることもあった。
学生は車掌に恋の悩みを打ち明けた。
台風で廃線となるまでは
列車は人々とともにあった。

「もう一度、必ず列車を通してみせる。」
廃線の復興を願う有志たちが立ち上がった。
あなたがこれから出会うのは、
人々が汗をかきながら守り抜いた風景。
絶景のその先へ、これからも線路は延び続ける

高千穂
あまてらす鉄道を知る

旧高千穂鉄道の頃から続く、
長い歴史を紐解きます。
そこにはさまざまな
ドラマがありました。

旧高千穂鉄道の歩み

古くは100年近く前、宮崎県と熊本県を結ぶ九州横断鉄道(国鉄)として計画された高千穂線。
1939年に日ノ影線、延岡駅~日ノ影駅間が開通し、
その後戦争で延伸は中断されていましたが

1972年に高千穂駅まで開通して「高千穂線」と改称されました。
沿線に暮らす年配者は、何日も続いた祝賀行事の話を懐かしく語ってくれます。
しかし熊本県側の工事は、1975年に高森トンネルの工事中に大規模な出水事故が起こり、凍結されてしまいました。
1989年、第三セクター高千穂鉄道として再スタートしてからは、通勤、通学をはじめとする地域の足として人々に愛されてきました。
日之影町深角在住で、長年深角駅周辺の環境整備を行ってきた山本栄治さんは「高千穂鉄道は人や物だけでなく文化を運んでいた」と語ります。
「工場勤めの会社員、延岡から魚を背負って乗り込む行商の人、客席に座った者同士、わきあいあいと語り合い、文化の交流になっていた。
ほのぼのした列車やったね。」
美しい景観の中を走る観光列車としても親しまれ、2003年に導入された「トロッコ神楽号」で観光客は倍増しました。
東洋一の高さを誇る高千穂鉄橋や、五ヶ瀬川の渓谷に沿った風光明媚な自然を求めて、多くの人々がこの地を訪れるようになりました。

台風被害、そして廃線へ

延岡から高千穂まで1時間半をかけた約50㎞の旅。
高千穂鉄道は四季折々の景観を活かした観光列車として徐々に人気が高まりつつありました。
しかし、2005年9月6日、台風14号がこの地を襲います

その勢いたるや、最大風速50m、暴風域直径560kmという猛烈なもの。
長時間にわたり暴風雨が吹き荒れました。
五ヶ瀬川は瞬く間に増水し、「第一五ヶ瀬川橋梁」 「第二五ヶ瀬川橋梁」の二つの橋梁が押し流されて倒壊。
温泉を備え、皆の憩いの場であった日之影温泉駅も甚大な被害を受けました。
線路はあちこちでうねり、ちぎれて、見るも無残な姿になってしまいました。
この台風の被害総額は約26億円にも及び、存続の声もむなしく、高千穂鉄道は廃線を余儀なくされました。

あまてらす鉄道の誕生

様々な人々の人生に寄り添い、思い出の詰まった鉄道をなんとか復興することはできないか。
沿線の有志が立ち上がり、2006年3月に神話高千穂トロッコ鉄道株式会社が設立されました

同社は、運行再開に必要な資金を調達するため、レールを留めるイヌクギや、枕木などの一口オーナーを募集。
その結果たくさんの支援金が集まりました。
しかし、鉄道事業者の認可を得ることに苦戦し、運行のめどが立たないまま2007年11月観光協会などの大株主によって、神話高千穂トロッコ鉄道の解散が宣言されました。
その後、高千穂線の復興を強く望んでいた株主が新体制を築き上げ、2008年4月、公募によって決まった新社名である「高千穂あまてらす鉄道」として再スタートします。
しかし、2008年12月28日に高千穂鉄道時の休止届の期限を迎え、鉄道の廃線が決定しました。
高千穂鉄道株式会社の清算によって、旧高千穂鉄道の資産(線路、駅舎等)が沿線自治体(高千穂町等)に無償譲渡されると、沿線の自治体は鉄道施設の撤去方針を固めました。
それでも、高千穂あまてらす鉄道は立ち上がります。
鉄道施設の撤去が始まる前に、線路の草刈り作業をはじめ、駅舎や現存するレールなどの整備、保全につとめました。
その粘り強い活動が実を結び、2009年ついに町の使用許可を得て高千穂駅構内が鉄道ミニ公園として開放されます。
スタッフや有志が集まり、皆で手押しの木製トロッコを運行しました。
髙山社長自ら子どもたちを乗せて、汗だくになってトロッコを手押しし、構内を往復することもありました。
2012年からは、休日に高千穂あまてらす鉄道オリジナルの車両「スーパーカート」(定員18名)を走らせることとなりました。
これも軽トラックを改造して手作りしたものでした。
復興をあきらめなかった社員や支援者のみなさんの思いが結実し、現在運行中の「グランドスーパーカート」は、ディーゼルエンジンで駆動する車輛で、馬力も十分に。定員も60名まで増えました。
また、2022年8月からは、環境にも配慮しバイオディーゼル燃料での運行もスタートしました。
高千穂駅 から東洋一の眺望といわれた高千穂鉄橋まで、毎回たくさんのお客様を乗せて、往復5km、約30分の夢の時間を提供し続けています。

なつかしい未来へ向けて、
線路は延び続ける。

過去の思い出を現在(いま)の喜びに。
生まれたワクワクを、未来の子どもたちへ。
憧れの運転士体験や、神降るナイトツアー、タイムスリップ感あふれるガイド体験など。
私たちは単なるアトラクショントレインを超えて、これからもチャレンジし続けます。
屋根のない列車だからこそ、どこまでも見渡せる。
なつかしい未来へ、私たちと一緒に旅をしませんか?
みなさんのご乗車を楽しみに待っています。


夢をつなぐ社員の思い

100年近くも前、国営鉄道、
高千穂鉄道の時代から、社員もまた、
乗客のみなさんに育てられてきました。
これからも人々の思いに応え、一歩一歩前へ。
3名の社員が熱い思いを語ります。

齊藤 拓由

HIROYOSHI SAITOH

1995年に高千穂鉄道に入社し、運転士としてたくさんの出会いと別れを経験してきました。列車を降りるときにいつも飴をくれる方に励まされ、速度が遅くなる坂道では、高校生たちが前の車両に集まることで、速度を維持したこともありました。沿線のみなさんに育てられたともいえる私が運転士を一生の仕事にしようと決意した矢先に廃線、解雇となり、仲間たちと復興運動を続けつつ、一時は福岡の甘木鉄道を運転していました。しかしあまてらす鉄道として一部でもよみがえったおかげで、私は戻ってくることができたのです。今は後継者の育成に尽力しつつ、またいつの日か五ヶ瀬川流域の人たちを必ず迎えに行きたいと夢を描いています。

西浦 大樹

DAIKI NISHIURA

沿線の家の出窓から、車両に手を振ってくれるおばあちゃんに出会った時、ああーこんなことがあるんだ!と深く感動しました。福岡出身の私は、移住してここに就職して初めてあまてらす鉄道の歴史を知ったんです。知れば知るほど地域のみなさんの愛情と熱意に共感し、今はガイドアナウンスでもそのことを第一に伝えるようにしています。2022年からは、環境に配慮した取り組みとして、燃料を軽油からバイオディーゼル燃料に切り替えました。豚骨スープから抽出したラードなどの廃油なんで、ちょっと香ばしい香りがするんですよ。これからもいろんな工夫をしながら、1㎞でも長く線路を延伸させていきたいです。

高倉 優樹

YUUKI TAKAKURA

生まれ育った家が日向八戸駅のすぐ近くだった私は、将来は高千穂鉄道の運転士になると決めていました。「運転士になるにはどうしたらいいんですか?」と齊藤運転士に聞いたのは小学校3年の頃。「どこの学校に行ってもいいけど、勉強だけはしっかりせんといかんよ」と言われたことを今でもはっきりと覚えています。大人になり、就職して学習塾の講師をしていましたが、コロナ禍で塾が休みになり、足が向いたのが高千穂駅でした。そして今、私は社員として列車を運転しています。憧れの職に就いた嬉しさと、命を預かる責任とを胸に、何年かかっても再び延岡まで列車を走らせたい。たくさんのお客様を笑顔にしながら、前に進んでいきたいです。

齊藤 拓由

HIROYOSHI SAITOH

1995年に高千穂鉄道に入社し、運転士としてたくさんの出会いと別れを経験してきました。列車を降りるときにいつも飴をくれる方に励まされ、速度が遅くなる坂道では、高校生たちが前の車両に集まることで、速度を維持したこともありました。沿線のみなさんに育てられたともいえる私が運転士を一生の仕事にしようと決意した矢先に廃線、解雇となり、仲間たちと復興運動を続けつつ、一時は福岡の甘木鉄道を運転していました。しかしあまてらす鉄道として一部でもよみがえったおかげで、私は戻ってくることができたのです。今は後継者の育成に尽力しつつ、またいつの日か五ヶ瀬川流域の人たちを必ず迎えに行きたいと夢を描いています。

西浦 大樹

DAIKI NISHIURA

沿線の家の出窓から、車両に手を振ってくれるおばあちゃんに出会った時、ああーこんなことがあるんだ!と深く感動しました。福岡出身の私は、移住してここに就職して初めてあまてらす鉄道の歴史を知ったんです。知れば知るほど地域のみなさんの愛情と熱意に共感し、今はガイドアナウンスでもそのことを第一に伝えるようにしています。2022年からは、環境に配慮した取り組みとして、燃料を軽油からバイオディーゼル燃料に切り替えました。豚骨スープから抽出したラードなどの廃油なんで、ちょっと香ばしい香りがするんですよ。これからもいろんな工夫をしながら、1㎞でも長く線路を延伸させていきたいです。

高倉 優樹

YUUKI TAKAKURA

生まれ育った家が日向八戸駅のすぐ近くだった私は、将来は高千穂鉄道の運転士になると決めていました。「運転士になるにはどうしたらいいんですか?」と齊藤運転士に聞いたのは小学校3年の頃。「どこの学校に行ってもいいけど、勉強だけはしっかりせんといかんよ」と言われたことを今でもはっきりと覚えています。大人になり、就職して学習塾の講師をしていましたが、コロナ禍で塾が休みになり、足が向いたのが高千穂駅でした。そして今、私は社員として列車を運転しています。憧れの職に就いた嬉しさと、命を預かる責任とを胸に、何年かかっても再び延岡まで列車を走らせたい。たくさんのお客様を笑顔にしながら、前に進んでいきたいです。